(過去ログ No.未定)
村田
「能動性」とか「受動性」ってことで話していたことって、俺は、日本語のことを言ってるんだと思っていたんですが。
根石
いや、そうじゃねえかもしれねえよ。コーヒー哲学で話してたときは、語学の言語とネイティヴ言語との区別なんかなかったな。
村田
「聞き言葉」と「読み言葉」の世界ってのは、語学の世界じゃねえかって話だったという気がするんですが・・・。
根石
そんなこと言った覚えねえなあ。「読み言葉」なんていっても、何を「読み言葉」って言ってるんだっていう疑問はある。俺にとっては、「読み言葉」ってのは読書の言葉だよな。読書の言葉って言ったって、とりとめがねえというか、どこに境界線があるんかわからねえけど。新聞読んでるのは読書じゃねえのかとかさ。新聞の折り込み広告読んでた場合、それは読書か、とか。まあ、普通そういうのを読書とは言わねえよな、とか。千曲市に溶融炉を作るってんで、建設地検討委員会ってのができて、それの議事録持ってきて読んでる場合、まあ、そんなのは読書じゃねえよな、とか。じゃあ、どこから読書が始まるんだっていう問題がある。娑婆とか世間とかに流通している観念として、「これが文学です」っていうのがある。新潮文庫ですとかさ。ある出版社のある出版部門に収録されてるものを読めば、読書してるっていう気持ちになれるとかさ。その辺がどうなんかね。新聞の折り込み広告読んでさ、黙って読んで、ポイと投げ捨てるってことはしょっちゅうあるけど、それをある人が読んでさ、げらげら笑い出してさ、三分間笑いやまなかったとか、三分間考えこんでたとかいうことがあったとして、その人は何を読んだのかとか、どんな読み方したのかとか考えると、もしかして、その人は読書しちゃったんじゃないかってって疑えるわけだ。
逆にさ、文学のブの字もわかんねえ十代後半の女の子がいたとして、ブの字なんかわかんなくても、その時代の空気にはしっかり染まっていて、若さの特権で好き勝手やることを謳歌してるとする。それがたとえば、夏目漱石の「道草」を読んだと。我慢に我慢を重ねて最後まで読み通したと。(笑)「なあんにもわかんない、なんのこと?」っていう読後感想を持ったと。「なんでこんなこと書く人いるの?こんなつまんないもの」って言ったと。これ、読書したことになるんかな。新聞広告の折り込みを読んでポイと投げ捨てた人と違うのは、我慢したことだ。なんで我慢するんかわかんねえけど。
村田
文学っていう・・・。
根石
そうだよ。漱石の書いたものが文学とされているからだ。「読み言葉」って言った場合に、俺の中でイメージされるのは読書の言葉だっていうのがあるけど、じゃあ、「読書」って何なんだっていうのがあるわけだ。新聞広告を読んだときの広告の言葉ってのは読書の言葉にはならねえのかよ、とかさ。漱石の「道草」なのに、なんで「なにこれ?」とか言われちゃうんだ?とかさ。読書とそうじゃねえものとの境界が定めがたいってのがある。読書っていう場合に、俺が考えるのは、読んでる言葉が生きてるとか、その言葉を人間が生きてるとか、そういうことが成り立てば読書だろうなと思う。その言葉で生かされているっていう場合だってあるわけだ。まあ、あらかたの折り込み広告や建設地検討委員会の言葉なんか読んでも、その言葉を生きるなんてことはしない。頭の中で何か動くだけで、それを心が受け止めるとかいうようなことはない。
漱石の「道草」読んだミーハーねえちゃんが、「何これ?」と言った場合でも、字は読んでたわけだけど、多分、イメージが動かないのか、イメージが作れないんじゃないか。文に沿って、イメージが動いていけば、「何これ?」って言わないんじゃないか。
村田
ああ、そういうことか。
根石
読書というものが成り立つ境界線は、それが決めるんじゃないのか。「読み言葉」が読書の言葉として成り立つのを決めるのは、イメージってものの動きがじゃないのか。話を元に戻すけど、「読み言葉」って言葉で俺が思うのは読書の言葉だってのは、俺の事情にすぎないわけだ。イメージなんか動かなくても、読書なんかしてなくても、ただ字を拾って、それをぶつぶつ言ったり、はっきり声に出して言ったりしていても、それでも客観的には、「読み言葉」なわけだ。その場合に、意味なんか何もとれていなかったり、心が動くなんてことはまるでなかったり、違うことを考えていたりしても、字を拾って、その通り口に出して言っていたりすれば、字を読むってことは成立してるわけだから、「読み言葉」として成立してしまう。読書の言葉ではないけど、「読み言葉」としては成立する。これが成立する地点が、「素読」ってものが成立する地点なんじゃないか。
ミーハーねえちゃんは、多分「道草」を我慢に我慢を重ねて一人で黙読するんだと思う。それでイメージが動かなければ、一冊読み通すのはうんとつらいことになる。だから、「何これ?」って悪態もつきたくなるんだろう。
「素読」ってのは、基本的には一人でやるんじゃなくて、コーチがいて、コーチの真似をして子供や生徒が声に出して読むわけだ。その場合に、意味をとるとか、イメージを動かすとかいうことは、素読では強制されないし、要請もされない。これ、何のためにそんなことをするのかって言えば、ひたすら「邪魔を取り除く」ってことをやってるんだと思う。別の言い方をすれば、イメージが歩けるように道普請をやってるわけだ。素読がやることっていうのは、後でイメージが動くようになるのに、邪魔な石ころを取り除くとか、でこぼこを平らにするとか、道を整えて準備してるんだ。
素読を有効だと考えることは、ひとつの「準備論」なんだよ。それで、イメージを自分の中で動かすのは、素読したテキストそのものでなくてもいいわけだよ。「すらすら能力」というか、ある一つのテキストをすらすら読める能力に厚みができれば、素読で扱ったものじゃないものを読んだってすらすら読める。その「他のもの」とか「他のテキスト」こそが、その人にとって本当に大事なテキストになったりすることも起こるわけだ。だけど、そのテキストに出会うためにも「すらすら能力」は使ってるはずだ。その大事なテキストに出会うことを、素読が「準備」するってことは言えるはずだ。素読ってのは、どこまでも「準備」なんだ。準備だってことが大事なんだと思う。素読がオールマイティにいろんなことができるって考える必要はない。だけど、「準備」だけはしっかりやってくれるととらえればいいと思う。いつも通りここで学校の悪口になるわけだけど(笑)、その「準備」を学校はやらない。
村田
それをやってないってことがひとつあって、もうひとつ、「準備」にどれだけ手間がかかるかってことを世間は評価しないですね。
根石
評価してないっていうか、そこに考えが及んでない。関心を向けさえもしない。だから、日本の近代以後、素読なんて言ったって、冷や飯食うだけだ。だけど、俺の塾の生徒たちに学年トップの花盛りって時期があった。塾生がかわるがわるいくつもの学校の学年トップをとってきて、庭に種蒔いておけば、早春の花、春の花、春の終わりの花、夏の花、秋の花っていう具合に、次から次ぎへと花が咲くみたいに、素読者の塾生がかわるがわる学年トップをとってきた時期がある。あれは、どう考えても、素読の「準備」の力のせいだとしか思えない。その頃は俺も冷や飯食ってたわけじゃないけど、だけどなんで娑婆と俺が折り合わねえかっていうとさ、要するに何もわかっちゃもらえねえんだってのがあってさ、とにかく素読ってものをわかってもらえない。東洋的な方法って言ったらいいのかね、一種の道教的な方法だと思っているんだけど、いくら成果を出しても方法自体の価値をわかってもらえない。素読は、東洋的身体論だとも思うし、東洋的学習法だとも思うけど、世間には方法自体はまるでわかってもらえない。それに対するいらだちってのがあったな。こんなのは医者の知識みたいに閉じたもんじゃなくて、眼目さえわかれば誰にでも使えるはずなのにって思っていたから、いらだちになったんだろうな。