(過去ログ No.12466より)
根石
簡単に言えば、「書く」っていうのは能動性で、「話す」ってのも能動性で、それに対して、「聞く」っていうのと「読む」ってのが受動性になる。
「読む」っていうのは受動性だけど、読みながら自分なりにイメージを作る、読みながら自分の中にイメージを産出するっていうのは能動性だよな。受動性の中の能動性ってのがある。
「書く」っていうことはそれ自体は能動性だけど、受動性が踏まえられているから書けるっていうことがある。この世に生まれてきた人間が、「聞き言葉」として言葉を受動しないで「話す」ってことはないだろうし、多分、「読み言葉」を受動しないで、いきなり「書く」ってこともないと思う。個人において、「話し言葉」や「書き言葉」が成り立つ場合は、それ以前に「聞き言葉」や「読み言葉」を通じて、自分の中に受動性が繰り込まれているわけだよ。だから、「書く」っていう行為だけを見ればというか、その場だけを見れば、あるいは外見だけ見れば、能動性だけれども、前提として受動性がある。能動性は、受動性を前提にしているわけだ。
そうすると、「受動性が転じた能動性」とか、「受動性をすでに繰り込んである能動性」ってのがあることになる。簡単に言えば、「受動的な能動性」とか、「能動的な受動性」っていうような言い方が成り立つんじゃないか。「読む」ってことは、「受動的な能動性」って言えるし、「書く」なんてのは、「能動的な受動性」って言えるんじゃないか。
村田
その場合、「読む」っていうほうはよくわかりますが、「書く」ってのはどうなんでしょう。
根石
「書き言葉」っていうのは自分にすぐに跳ね返ってくる。書きながら、ほんとうにそうかよっていう自問が生じているとかさ。これは、「話し言葉」にもあって、自分でしゃべりながら、本当にそうかなあと自問が生じているとか、しゃべりながら、ちょっと違うことを言っているなあと思いながらしゃべってるとか、言葉がすぐに自分に跳ね返って、跳ね返ったものを自分が受けとっている回路があるわけだ。言葉「以後の受動性」ってものがある。「書く」とか「話す」っていう行為の中に、「受動的能動性」も「能動的受動性」も見つけられると思う。だから、「話す」「書く」に能動性だけ見ているのは、あくまで外在的に現象だけ見ているだけのことだ。「能動性」の中には「受動性」が繰り込まれているんだよとか、「受動性」の中にただちに「能動性」が立ち上がるんだっていうのが、言語体験ていうものだと思うんだよ。言語が生きてるって言えばいいのか、言語を生きるって言えばいいのか、言語体験とか、言語を経験するっていうことの中に、そういう「能動性」と「受動性」との「あざなえる縄のごとし」みたいなのがある。
村田
そうすると、「話し言葉」って言った場合と、「聞き言葉」って言った場合の、「言葉」っていう語が言っていることが違うような気がするんですが。
根石
どういうこと?
村田
「書き言葉・話し言葉」って言った場合の「言葉」は、普通に言葉だとして受け取れるんですけど、「聞き言葉」て言った場合は、言葉そのものじゃなくて、聞こうとする姿勢みたいなものなのかなと思ったんですけど。
根石
「聞き言葉」だって、姿勢とか意識の向け方とかを言っているんじゃなくて、言葉そのものなんだよ。「話す」において、唇だとか舌だとか喉だとかを振動させることで空気を振動させて、「聞く」において、鼓膜を振動させているものは、同一の言葉なんだよ。ここで同一の言葉って言うのは、しゃべっている自分とそれを聞いている相手の間にあるものは同じ言葉だよっていう意味だけどさ。「話し言葉」っていう場合の「言葉」も「聞き言葉」っていう場合の「言葉」も、同じ言葉が別の人間にそれぞれ別の振動を引き起こしているだけだ。同じ「言葉」がそれをやってるんだから、「しゃべり言葉」も「聞き言葉」も言葉だ。
村田君が言ってるのは、普通、「聞き言葉」っていう言い方はあんまりしないってことなんじゃないか。「聞き言葉」ってことを言い出したのは簡単な理由でさ、表面的に、「話し言葉」が能動性に見えるとしたら、同じように表面的に、「聞き言葉」ってのは「受動的」なものに見える。「能動」と「受動」のもっとも単純な対の関係ってのを言うために、「聞き言葉」ってのを言ってみただけのことなんだ。それで一応、「表面的にとらえた場合の対の関係」が作れる。対になる二つをそれぞれ、もう一度よく見てみると、能動的に見えるものの中にすでに受動性があるとか、受動的に見えるものがただちに能動性に転じているとかは、これは表面的にとらえた「能動性」と「受動性」の内部構造を言ってみたわけだ。これさ、ネイティヴ言語では、ほんとに「限りなく同時」だって言えると思う。「聞き言葉」なんてさ、微分していけば、鼓膜の振動と脳の動きとを別のものとして扱うことが可能なように見えるけど、そんなことはやってみる気はなくてさ、やったって、脳生理学は成立するかもしれないけど、語学論は成立しない。鼓膜が空気の振動を受け止める受動性と、考えやイメージが動く能動性は「かぎりなく同時」だと見る方がいい。脳生理学をやるんでなくて、語学論からネイティブ言語を参照した場合、「限りなく同時」から「限りなく」をとっちゃって、「同時」だとまで言ってしまっていいと思う。そう見たときに、語学ではなく語学論が成り立つんだと思う。ネイティヴ言語の「同時性」があらかじめ壊れているというか、「同時性」があらかじめ存在しないのが語学だと言った時に、ようやく語学論が立ち上がるんだと思う。
語学では、「同時性」が「磁場」の作用の結果としては成り立たない。当該の「磁場」そのものがないから「同時性」が「自然性」としては成り立たたない。それを成り立たせようとするのが語学なわけだ。あらかじめばらばらなものを「同時」という状態にもっていこうとするのが語学だと思う。どこまでやれるかは別の話なわけだ。
ネイティヴ言語でも、ぼんやりしてたり、上の空で人の話を聞いていたりすれば、この「同時性」はすぐに壊れて、鼓膜の振動という「受動性」と、イメージや考えの動き(脳の動き)との間にタイムラグが生じる。数秒から十数秒程度のタイムラグが生じることがある。
語学において、最初はばらばらな「能動性」と「受動性」が「同時」に動くようになるという場合、このタイムラグは、ネイティヴ言語とは比べものにならないほど大きい。単語なり文のイメージの核が本当に把握できないと、あるいは、音や文字という外在物の感受が意識におけるイメージの核の生起になったり、またその逆に、イメージの生起がただちに具体的な語や文を意識に喚起することが「同時」にならないと、「同時性」が成立しないんだけど、そうなると、語学では、最初にそれを「受動」したときから数年も十数年もたってから、「受動性」と「能動性」が同時化するってことはざらにあることだよ。これ、極端なことを言っているんじゃなくてさ、「磁場」を欠いて語学だけやってる場合、本当にざらにあることだよ。俺が「イメージ核受肉教材」なんてものを作って、「アジアの大河型レッスン」なんてことをやってるのは、ここを踏まえているからなんだ。
これが、最初から意識が言葉の当事者になってる言語と、意識がどこまでも当事者性を欠いている言語との差だと思う。この差を「磁場」って語が解くはずだと思って、「磁場」ってことを言ってきているんだ。
言葉の当事者である場(「磁場」)では、ほとんどの場合、「受動性」と「能動性」は「同時」に動いているんだけど、ぼんやりしてたり、上の空だったりするときに生じるタイムラグってのが、「受動性」は「受動性」であり「能動性」は「能動性」だと、本来別々のものだっていうのをはっきりさせる。人間がぼんやりしていればしているほど、これをはっきりさせると思う。(笑)
ぼんやりしてたり、上の空だったりしているときの「意識の空白状態」が、語学の場なんじゃないかな。それは現実から切れてたり、遊離してたりするんだけど、現実から「切れている」とか「離れている」意識っていうのが語学の本当の「場」なんじゃないかな。
「生活言語」や「磁場」における「ぼんやり」や「上の空」は、意識から力が抜けている状態だ。語学はそこのところがまったく違っていて、「強くイメージするために意識を行使する」っていうことは語学の常態としてありうる。全然「ぼんやり」や「上の空」じゃないわけだ。そこがまるで違っている。だけど、現実から「切れている」とか「遊離している」っていう点で、語学という行為の全体は、生活言語やネイティヴ言語の「空白」と同じ位置を占める。激しい語学という行為の全体が、生活言語や当事者性を生きる言語(「磁場」における言語)の中の「ぼんやり」や「上の空」という「空白」と位置的に重なる。
これは独断だけど、子供の頃、「ぼんやり」してたり、「上の空」だったことが多かった人っていうのが、語学に向いているかもしれない。今言ってきたことからすれば、語学が成り立つための「位置」だけはすでに持っているわけだから。
語学ってのは、現実を生きるんじゃなくて、現実の「空白」を生きる行為なんだ。「ぼんやり」や「上の空」と同じで、現実から「切れている」し「遊離している」。どれほど激しく語学をやっても、これは変わりない。もし、語学に現実ってものがあるとすれば、それは「意識における」ってことをはっきり限定した上での現実性だ。つまり、イメージの現実性だ。いわゆる「現実」から切れた「別の現実」だ。