『英語どんでん返しのやっつけ方』(小学館 根石吉久・村田晴彦共著)より


・先生根性ほど嫌いなものはない

 英語での喧嘩は、イギリス娘としたのが最初でした。(略)このイギリス娘は、日本に来て英会話の先生をしていました。家庭教師のようなこともやっていた らしく、ある日、私の家に来て次のようなことを言いました。
「子供が大きくなってしまった日本の家庭には、子供が幼かったときに買ってやった絵本がたくさん放置してある。誰も読まない絵本がたくさんあるので、これ を英語に翻訳し、アフリカの子供たちに送ってあげたい。私は日本語の読み書きができないから、あなたが日本語を英語に直し、その英語を私がさらに読みやす いものにしてアフリカに送ってあげるのだ。そういう仕事を考えついたから、あなたは私を手伝うべきだ」
 イギリス人の娘にそう言われ、私がやりたくないと答えたことから、言い合いになりました。
 「あんたは日本語の絵本を英語に直し、アフリカの子供たちに送ることで何か「いいこと」をするつもりらしい。しかし、どうしてアフリカの子供たちが英語 で絵本を読まなければいけないのだ。アフリカには、おじいさんやおばあさんがアフリカの言葉で子供たちに話したお話がいっぱいあったはずだ。自分たちの言 葉で子供たちに話していたお話があったはずだ。あんたらヨーロッパの国が、アフリカを植民地にし、金や銀を泥棒し、勝手に自分たちが支配して、好きなよう にいじりまわした。そして、そこの言語やお話を滅ぼした。だから、今ではアフリカの子供が英語で絵本を読むような変なことになっている。それは変なことな のだ。
 絵本を読むことは、語学をやることとは違う。語学のように、自分が自分に対して意識的に行うこととは違う。絵本を読むことは、一人の子供の『生活』なん だ。その『生活』の言葉を外から勝手に英語に置き換えることは野蛮なことだ。あんたは、その子供の『生活』の中に、まるであたりまえのことのように英語を 置こうとしている。俺は、あんたがやろうとしている『いいこと』を今は手伝うつもりはない。
 日本の家庭に放ってあるように見える絵本も、子供が大人になってから、もう一度抱きしめるようにそれを読みなおす可能性だってある。自分が子供の頃にそ れを読んだときの感情を、その絵本でもう一度抱きしめることだってありうるのだ。放ってあるように見えるものが、なぜ不要のものと決められるのか。日本語 の上に英語を書いた紙を貼りつけてアフリカに送ることなど、俺はやりたくない」
 すると、イギリス娘は、お前は「exchange of culture (文化の交流)」を否定するのか、それなら、なぜお前は英語を教えているのか」、と私に反論しました。英語で喧嘩をするのは初めてでしたから、私の脳味噌 は、そのときだくだくと汗をかいていたかもしれません。
 言いました。
 「俺が英語をやっているのは、お前のようなやつにはっきりとものを言うためだ。俺は、今、英語でお前と言い合っている。お前は、子供の頃からしゃべって きた言葉で俺と言い合っている。言葉の喧嘩でどっちが有利か、どっちが不利か、お前にもわかるだろう。俺がガキの頃からしゃべってきた日本語でお前をやっ つけるなら、お前を本当にうちのめしてやれる。英語は俺にとって、練習途中の言語だが、その練習途中の言語で、今、俺はお前と喧嘩しているのだ。不利な言 語でお前の相手をしているのだ。言語そのものが culture であり、culture の精髄だ。今、この場所で、それを本当に exchange しているのは誰だ。お前なのか、俺なのか。『いいこと』なんかする前に、日本に暮らしているお前は、日本語をまともにやって、exchange of culture をやるがいい。それをやらないことの免罪符に、アフリカなんか使うんじゃない」
 イギリス娘は、その場を蹴たて、どかどか歩き、玄関の戸を乱暴な音をたててあけ、行儀悪く出ていきました。喧嘩はどうしても後味が悪いものですが、それ でも私は英語をやっておいてよかったと思いました。


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